高山
高山は、島の北西に位置し、山頂からは、南西に広がる深川湾と「波の橋立」、また東方の海上には、断崖絶壁が連なり、洞門石柱など数多くの奇岩怪岩が屹立する、いわゆる「海上アルプス」の絶景を望むことができる。
頂上には(旧)日本軍の監視哨の建物が残っている。
山頂には、旧日本軍の監視哨跡が遺されている。 頂上の景観が素晴らしく、360度パノラマが広がっており爽快感のある気持ちのいいところで、気軽に登山できる山として人気があります。
●距離:約 2.7km(登山口~山頂)
●歩行時間:上り約 40分、下り約 30 分
*登山道:
・4合目にあるキャンプ場までは、アスファルト舗装された
車道が整備されている。
・キャンプ場内にマップ看板あり。
*注意点/アドバイス:
・公衆トイレは、登山口近くの海岸沿いにある。
*登山口までのアクセス:
・青海島は青海大橋で本土と架橋されている。
・JR仙崎駅からバスで約 10 分「青海」下車、徒歩 15 分。
レンタカー利用可能。上記公衆トイレ付近に駐車場あり。
登山口
*関連行事・イベント:
・地元住民が中心となり、元旦にご来光登山を開催している。
*周辺情報:
・山道途中に青海島高山オートキャンプ場あり。宿泊はオートキャンプ・テント泊可(開設期間 4/1~10/31)。
・上記キャンプ場に飲料自販機あり。
高山の頂上はとても見晴らしがいいため、歴史的な背景がある。
1904年の日露戦争時に、ロシア海軍のバルチック艦隊が東シナ海から対馬海峡に向かっていた。高山山頂のこの場所に監視所を作って、有線電話がつけられて、バルチック艦隊の状況を作戦本部に逐次連絡を取っていたと言われています。
<高山は火山>
・白山火山帯の一脈をなした、火山である。
・高山が噴火したときに仙崎の州崎(半島の先端)が崩れ落ちて深い瀬戸となり、反対にそれまで海峡であった青海島と通島の間が隆起して地峡になった(船越)とも言われています。
<捕鯨の見張り台>
・高山の頂と筍の鼻に見張りがいて、白い潮を噴いて進んでくる獲物が見つかったら、狼煙や手旗による合図を送っていた、二艘の網船と十数艘の追船が、巧に動いて漁陣を敷いて鯨を捉えた(古式捕鯨)
・当時は日本海側(外海)で捕鯨をする機会は稀で、基本的には湾内での捕鯨が中心だった。だが、あるときに有志の若い漁師で結成された沖組という組織で、外海での古式捕鯨に挑戦した。
しかし、リスクが高く死者が大勢出た。リスクが高く捕鯨できないと意味がないので、仙崎古式捕鯨では外海での漁は稀であった。
<監視哨>
・明治1904年の日露戦争時に、ロシア海軍のバルチック艦隊が東シナ海から対馬海峡に向かっていた。(日本海海戦)。この海戦時に、高山山頂のこの場所に有線電話が架せられて、バルチック艦隊の状況を大本営に逐次連絡を取っていた。つまり敵の動静を見張る監視哨としての役割を果たしていた。
※通には、日露戦争で戦死した対馬海峡から流れ着いたロシア兵を弔う墓がある
・山頂の建造物は、第2次世界大戦中(1939-1945)に敵戦闘機が飛来してきた時に、光を照らして動きを追っていた。敵機がいつ攻めてくるかわからないので情報をキャッチしては軍司令に伝達していたのではないか。(監視哨の役割)また大戦終盤の劣勢時には地元の人間が自ら登り監視していた。
当時、軍の命令により地元の学生で組織された青年隊という団体がレンガを運んで積み上げて作った
公益財団法人日本離島センターが「しま山100選」に選ばれています
http://www.nijinet.or.jp/about/activities/tabid/200/Default.aspx
【ロシア兵のお墓】
青海島の通地域にはロシア兵のお墓があります。
20世紀初頭におきた日露戦争。
1905年5月27日、日本の連合艦隊が、対馬海峡を通過したロシア・バルチック艦隊を日本海対馬沖で迎え撃ち、翌日に渡り、数回の戦闘が行われました。
この海戦で戦死した多くのロシア兵士の遺体は、山陰地方の各地に漂流したそうです。
通地区の大越の浜にも数体の遺体が打ち上げられ、当時の通浦の人々がそれをねんごろに供養し、お墓を建てたそうです。
墓碑は、最初自然石を置いたものだけだったようですが、昭和43年に地元の有志の手で立派な御影石のお墓に建て替えられ、現在に至っています。
青海島が培ってきた優しさやいたわりの気持ちがよくわかる場所となっています。
0コメント